いつかではない、今日

人に期待するとは、自分に期待している事と同じだと気づいた。

○○さんなら、大丈夫。

些細な甘えが大きくなって期待に変わる。

 

相手のキャパシティを越えてしまう事を要求してしまう。

グラスの水が永遠に溢れて止まらない。

溢れてしまっている事に私は気づかない。

そんな時にはもう遅くて、足元、周辺にまで水が飛び散って、もう回収がつかない。

拭いても拭いても布巾はずっと湿ったままだ。

 

役職で人を判断してはいけない、と先輩に教わったのに。

やはり役職で判断してしまう自分がいる。

 

その役に全うできる適した人だろうと。

役職を持つ人には勿論、期待するだろう。

 

期待して何が悪い。とさえ思う。

 

そういう社会や、周りに適応できない人間が社会からはみ出て、埋もれて、

やがて、死ぬ。

 

強調性や、チームワークなんて都合の良い言葉だ。

期待しても応えて貰えない。

自分が発信したものは全て自己満だとされる。

 

理不尽な社会は、自分に見合わない仕事を要求する。

これが会社だ。

 

その反面、守られてる。

給料や、責任から守られている。

不満なら逃げ出せばいい。

どうせまた、同じところに逃げるんでしょう?

 

情けない、みっともない、根性がない。

負けたくない、逃げたくない。

自分自身をもう少し大事にしたい。抱きしめたい。

邦画はおしゃれ

『えー?!邦画・・・?邦画なんか見ない!』

って結構な確率で言われる。

 

洋画はおしゃれで、最先端をいってるという謎の風潮がある。

邦画を見ているとダサくて時代遅れで、映画の事なにもわかってないみたいな表情をする。

 

私は最近になって気づいたが、洋画があまり好きではない。

邦画が大好きだ。

 

なんなら、邦画の方が日本人に合っているとさえ思う。

 

なぜかというと、日本人に合わせた人間の汚い部分や、いやらしさ、愛が溢れているからだ。

日本人らしさ、人間味と言ったらいいだろうか。

それを巧みに表現する俳優や、監督、脚本がそこにはいる。

繊細な部分が全てのねじが締まるように、良い加減で表現されている芸術だ。

 

邦画をバカにする人がいる。

邦画を見ない若者が沢山いる。

 

確かに、駄作と言われたりするものも存在する。

『あーこれ、映像化しちゃったかー・・・。』もある。

世間の駄作が、あなたの駄作とは限らない。

 

蒼井優の”あの”スピーチが蘇る。

何か辛いこと、悩みがあったら映画を見る。

元気があれば映画館に行ってみるのがいいかもしれない。

 


蒼井優が“行方不明”に 映画「アズミ・ハルコは行方不明」予告編

 


『何者』予告編

 


『リップヴァンウィンクルの花嫁』予告編

nagoya dream

私は人生から逃げることが多い。

目を瞑って、考えて、でもまとまりがつかないから、とりあえず衝動的に行動してしまう。

 

私が初めて一人暮らしを始めたのは18歳を目前とした17歳の時だ。

愛知県の名古屋市に、17歳の私は向かった。

 

初めての土地、一人暮らし、人。

全てのものが新鮮であり、夢であった。

ここで私は生まれ変わり、出会いがまっている。

 

だけど、そこには夢なんてなかった。

 

空っぽの部屋。

勿論、裕福な家庭ではないから可愛い家具も家電もない。

前の住人が残していった、座ると軋むベッドと、保冷剤の匂いがする冷蔵庫だけ。

マンションもどこか薄暗くて、エレベーターも嫌な感じがした。

『ここが私の居場所になるのか』

 

ホームシックは止まらない。

九州から出た私は、名古屋に友人なんていない。

17歳の私には好奇心もありながら、この寂しさに勝てる力はなかった。

 

でも、不思議なことに1週間もたてば、環境になれた。

良い、悪いは別としても。

仕事もはじめた。

 

振り返れば、全てが思い出であるように、一人暮らしは素晴らしかった。

多感な時期に、自分で生きていく辛さを知れた。

親友もできた、洗練された街で性格が創られた。

見た事もない、景色や物、初めて食べる物もあった。

恋もした。

 

今思えば、夢も沢山転がってた。

また、富や名誉を手にする人も見た。

田舎者の私にはやっぱり都会は夢だ。

緊迫された大都会で

無性に言葉を文字にしたくなる時がある。

考えを言葉にして、空中に浮かべたくなる。

空気に変わって振動し、そして自分の前から消えていく言葉に感動する。

 

やっぱり、私は言葉が好きだ。

 

デジタルを断捨離すると、誰かに想いを伝えたくなる。

知人では駄目だ。私の殻が破れてしまうからだ。

 

言葉には衝動がある。

 

思いたったときに、溢れて止まらなくなる。

深緑の奥深くにある、誰も訪れたことのない場所で、台風が過ぎ去った後に勢いよく流れている滝と同じだ。

 

やがて落ち着く時に、私は衝動から救われる。

 

 

最近は良い事があまりない。

ネガティブだし、センシティブ。

 

感情は自分で決めるものなのに、他人に左右され、他人に認められたい情けない承認欲求がある。

 

自分の評価は他人が決める事だから、必然的にそうなるだろう。これが社会だから。

 

精神が病んだひとに「頑張ろう。」は禁句と昔に聞いたことがある。

あー、こういう事か。って理解ができる。

 

承認欲求は自分の評価が高く、頑張っていると自負しているからだ。

だからこそ、そういう人に向かって「頑張って」と言っても混乱してしまう。

 

私が捨てるものは、

相手の為に、と思うこと。

頑張ること。

この2つだと思う。

 

最近、友人にハッとされる事が多い。

自分の世界で踊っていた私は、音楽を止められて、踊り方を忘れてしまった孤独なダンサー。

 

何の為に生きてるんだろう。

誰の為に生きてるんだろう。

私はどうして、ここにいるんだろう。

 

 

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

 

 

 

瞬き

mainichi.jp

 

凄い記事をつい最近、見つけた。

私はLGBTの一人で、まだ手術を受けていない。

だから戸籍も産まれた時のままだ。

 

不便だし、生きにくい。

 

 

私が自分と向き合い、生きてきて10年くらいになる。

長いようで、あっという間だったかもしれない。

沢山悩んだり、落ち込んだり、そして喜んだり、幸せを受けた。

 

手術は通過点。

手術を受けただけでは、決して幸せになんかになれない。

 

その先を私たちはどう生きていくのか。

どういう心持ちか、夢や、希望はあるのか?

そこに助けてくれる仲間や、愛情はあるのか?

 

私は私だから、それは当たり前のことだから。

個人として生きていける幸せをまたここで一度考える瞬間なのかもしれない。

腐敗して俯瞰される

自分はいつまでも特別で、この世界の中で唯一の存在とずっと思っている。

だからこそ、人を妬むし、羨んだりするんだと思う。

 

いつでも決断を委ねられている。

けど、それってあるべき場所に物があって、必要とされる物にだけ意味があるのと一緒で

私たちはいつか終わりがくると分かっている世の中で

何回そういう風に感じるかが重要なんだと思う。

 

なるべき者はなる、ならざる者はならない。

 

最初から選ばれているし、どこかで開花する花の様に季節がきたからと、順番だからとかは一切ない。

 

私たちはいつかいつかと出番待ちしてる商品ではない。

 

私はどっちでしょうか。

期待されるリーダーと自由人

卑屈になって大人の意見を聞かずに、自分の理想や夢を投げ捨てて、思いもしてないことを口にする格好の悪い人間になってしまった。

 

夢を語る事は恰好いい事。

分かってる。

 

けど、自分がその理想とかけ離れた無謀な事を口にする勇気や自信がないから。

自分が今まで口にしていたことは嘘でした。という態度をとってしまう。

 

私っていつから恰好が悪くなったんだろう。

いつから道を遮断して次の扉を開くふりをしてるんだろう。

 

楽しいと思いながら気になってしまう今、この瞬間に。

寄り添えるように、もっと周りを巻き込めるように、私の気持ちを他の誰かに伝える事ができるように。

 

私の夢は私自身が実現させて、それに伴って私は生活をして。

誰かにエネルギーを注げる、人間になるのだと。

誰かに影響を与える人間になるのだと。

生きていて、良かったと、ずいぶんと遠回りしてしまったけども、両親や家族に心配かけないのだと。

 

夢を叶えるのは目を覚ます時だ。